冬至から一ヶ月が過ぎ、日脚がずいぶん伸びてきました。同時に、日の入りの地点も西へ西へと動いています。薄ら陽が、日の入り前のひととき、教室内に射し込むようになりました。
 窓の外には、まっかな太陽が一日の最後の仕事として、家々を赤く染めています。その光景を見ていると、なつかしい詩が思い出されます。
  ♪赤い夕日が 校舎を染めて ……ああ 高校三年生 ……クラス仲間は いつまでも♪
30数年前に大ヒットした、『高校三年生』です。

 前日、高校受験を目前にした塾生が、深刻な顔をして話しかけてきました。
 「どこの高校も受からなかったらどうしよう」
 悲観的な予測に時間をとられるよりも、合格できる可能性を信じて受験するギリギリまで学習に集中することの大切さを説明しても、「でも、もし……」がくり返されるばかりです。「いざとなったら二次募集だってあるのだから」という話もしましたが、もちろんそんなことで安心できるはずもありません。
 いろいろ話を続けた後、ふるさと会津の高校受験の昔話になりました。

 その当時、中学三年になると就職組と進学組に分かれました。
 16歳の労働力が、金の卵と呼ばれていた時代です。『ああ上野駅』の歌にあるように、東北地方から大勢の中学卒業生が、上野行きの列車に乗って集団就職していきました。
 ふるさとを離れて就職する者と地元に残って就職する者を除いた進学組は、放課後、日が暮れるまで、高校入試にむけて補習授業を受けたものでした。
 数校受験するのがあたりまえの現在と違い、受験するのはただ一校のみで、募集定員よりも受験者の方が多いのですから、合格できなければ翌年まで浪人するか、進学をあきらめるしかありません。
 そこで、「1年浪人生」が高校入学者の中で10パーセント近くを占めていました。それ以外に、クラスに一人か二人は「2年浪人生」もいました。
 厳しい時代でした。厳しい受験でした。その厳しさを乗り越えられたのは、高校へのあこがれがあったからでしょう。
 家庭の事情などで高校進学をあきらめざるをえない同級生を思えば、受験できるだけでも恵まれた存在でした。高校へ進学することは、現在大学へ進学するよりもはるかに重みがありました。
 高校を目指す者にとっても、高校を目指せなかった者にとっても、いずれにしても高校に対するあこがれが強かったからこそ、学生服姿で歌う舟木一夫の人気が高く、『高校三年生』『学園広場』など、高校生活を題材にした曲が次々にヒットしたのでしょう。

 ふたたび窓の外に目をやると、先ほどまで夕日に照らされていた家々は、闇に包まれています。
 薄墨色の空を背景にして、茜色の富士山がくっきりと浮かび上がっています。

 ところで、夕日はどうしてこれほど赤く輝いて見えるのでしょう。
 太陽光は、波長が短い方から、紫外線と可視光線(紫・藍・青・緑・黄・橙・赤)、赤外線に分かれます。そのうち人間の目で分かるのは可視光線で、虹の七色とも呼びますが、はっきり区別できるのは青から赤までです。つまり、人間が判別できる最も波長が短いものは青い光線であり、最も波長が長いものは赤い光線です。
 光は波と同じ性質を持っており、非常に小さい物体に当たると、その物体を中心にして周りに波が広がります。このような光の散乱を研究したレイリー(イギリスの物理学者)は、「散乱する強さが、光の波長の4乗に反比例する」ことを表らかにしました。
 波長の比は、「青い光線」対「赤い光線」が、1対4です。そのため、散乱する強さの比は、「青い光線」対「赤い光線」が、16対1となります。
 こうして、昼間は小さな空気分子そのものに青い光線が散乱して、空が青く見えます。
 一方夕方は、太陽光が昼間よりも長い時間大気圏をくぐりぬけるため、青い光線が散乱しさり、橙や黄、緑の光線も散乱した後に残った、赤い光線が目に入ってきます。

 夕焼けの翌日は晴れるとの言い伝えに期待していると、前に述べた塾生が、最初の受験校に合格し、そこに入学すると報告してきました。
 これで表情も変わるだろうと思いきや、まだ浮かぬ顔を続けています。
 「高校に入学した後、果たしてついていけるだろうか」
 「○○大学に入れるだろうか」
 高校受験の関門をくぐり抜けた後も心配は尽きませんが、じっくりと実力を養っていけばきっとなんとかなるということに納得し、明るい表情で学習にとりかかることができました。
 加湿器のかすかな音がする中、塾舎の夜はふけていきます。

    しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり       蕪村

赤い夕日