僕とドラえもん
マンガの素晴らしさ
「マンガ」を考える
真の学問
僕は、子供の時からずっと『ドラえもん』が好きでした。今でも『ドラえもん』を時々見ています。
富山大学教育学部教授の横山泰行氏は『ドラえもん』を「正典」として扱っているらしいです。僕自身ドラえもんが大好きで、今まで上映された映画はビデオで見たり、映画館まで足を運んだりと、すべて見てきました。
映画で見る『ドラえもん』は、テレビとは比べものにならないくらいおもしろく、そして、ものすごい迫力です。でも、最近の『ドラえもん』は、なんだかつまりません。やはり原作者の故藤子・F・不二雄さんが書かないとつまらないのでしょうか。
僕は、故藤子・F・不二雄さんのマンガが大好きで、ほとんど読んだと思います。故藤子・F・不二雄さんが亡くなった時はとてもショックで、とても悲しかったです。もう、『ドラえもん』が終わってしまうのではないかという恐怖感も感じました。しかし、『ドラえもん』は終わらずに、今も放映されています。
今のドラえもんがおもしろいと感じなくなったのは、きっと時代が変わり、昔のままの『ドラえもん』が好きだという僕の勝手な思いなのかもしれません。『ドラえもん』も、だんだん進化しているのかもしれません。
自分はもう、昔からマニアといわれんばかりにマンガが大好きだった。小学校に入学する以前に、『ドラゴンボール』と『幽遊白書』などのマンガに大ハマリして以来(兄の影響が強い)、いろんなマンガを集め始めた。現在も、荒木飛呂彦氏の書いている『ジョジョの奇妙な冒険第五部』、『ゴールドエクスペリエンス』にハマっている。
マンガは、そのおもしろさの反面、否定されることも多い。アメリカでは「マンガを読むのは十歳未満の子供と変人だけ」と言われているらしいし、日本でも以前読んだ本で「電車やバスの中で目を皿のようにしてマンガを読んでいる人間は程度が低い」と書かれていた。でも、自分はそうは思わない。マンガは小説や文庫・伝記などとさほど変わりないのだ。どちらも作者が自分の中で思い描いた世界を書きつづるのだから、それが字か絵かのちがいだけだ。マンガも文庫もそのストーリーや登場する人物のおもしろさにひかれて、続きや次回作を楽しみに待つ、両者共にそんな素晴らしさがあるのだ。
マンガの良さは一言で言い切れない。自分の考えでは、文庫にはありえない、見ることの楽しさだと思う。その時その時の主人公や回りの人間の表情、姿形、迫力などは、マンガでしか表現できないのではないか。文庫には想像する楽しさがあり、マンガには見る楽しさがある。そう考えてマンガを読めば、マンガはくだらないと思っている人の価値観もきっと変わるだろう。
自分は、こんなマンガの素晴らしさに魅せられた。これからもずっとマンガを読んでいくだろう。
平成13年7月、「マンガ学会」が新たに設立された。この学会は、日本で唯一マンガ学科を持つ京都精華大学と研究者、評論家、マンガ家などの人々で構成されており、一般愛好者の入会も可能だという。また、富山大学教育学部の横山泰行教授は「ドラえもん学」を提唱し、ゼミ生や受講生とともに日々研究に熱中している。このように、近年では学問としてマンガを研究する動きが少しずつ強まってきている。
学問としてのマンガとはいったいどんなものなのだろうか…と考えると頭がこんがらがってしまいそうなので、私なりに「マンガ」というものを解釈してみようと思う。
マンガは何のために存在しているのだろう。私は、基本的に娯楽のためだと思う。マンガを読んでいると、可笑しくなったり、悲しくなったり、ドキドキしたり、深く考えさせられたりする。そして、何より楽しい。
では、描く側にとってのマンガとは、どういうものだろうか。最も具体的にその人の考えを伝えられる手段の一つだと思っている。たとえば、ある人(アマチュアの人)は、映画などの感想を自分なりにマンガ化し、インターネットで公開している。なぜマンガかというと、絵を描くだけでは説明できない部分もあるし、文章だけでは子供が読みきれない場合がある。そこで、この二つを融合させたマンガは、読者の世代などを問わず、様々な人々に自分の考えをとても具体的に伝えることのできる手段なのだ。
普段なにげなく読んでいるマンガでも、別の視点から解釈してみると全く違うものになる。今回この文章を書いてみて、私は「マンガ学会」の人々や横山教授の気持ちがなんとなくわかるような気がした。
「日本マンガ学会」というものが設立されたのを知っているだろうか。それは、研究者相互の交流促進、情報の体系的な整理、公開、関連情報のネットワーク作りなどを活動内容にしている。学会設立までをふりかえってみると、なんと、大学のマンガ学科というものから始まったことがことがわかった。これにはぼくもびっくりした。大学にマンガ学科というものがあったからだ。
学会設立について研究員は、「学会はマンガ研究の底上げの人的交流、育成の場であり、大学などの制度を越えて個人の動機に支えられて研究する場にしたい」と話している。ぼくは、このマンガ学会がおもしろくなりそうだなと、期待している。
「ドラえもん学」、最初はこれがなんだか分からなかった。しかし、資料を読んでいるうちに、研究している横山教授のやりたいことがわかってきた。「22世紀まで伝えていきたい」ということだ。
ぼくもドラえもんが大好きだ。ドラえもんの映画は、ぼくが生まれる前のものも、後のものも、映画館やビデオですべて見ている。ドラえもんのマンガもたくさん持っている。
ドラえもんはクラスでも人気がある。それはなぜだろう。時代を超えた面白さがあるからだ。時代を超えた面白さとは何だろうか。例えば、「ひみつ道具」のタイムマシンやスモールライトだ。タイムマシンは、時代を超えて未来にでも行ける。スモールライトは、人を小さくできる。これこそ「未来の科学」だ。
ぼくの家には、タイムマシンではなくミニカー、スモールライトではなくかい中電灯しか似ているものがない。ぼくは未来の道具がほしい。未来の人は現代の道具がほしいかもしれない。たぶん、ほしい理由は違う。ぼくは「あこがれ」で、未来の人は「なつかしさ」か「めずらしさ」だ。
マンガを別の角度から見ると、いろいろな表現ができる。例えば、エンターテイメントやメディアなどだ。もしかしたら、ぼくが大学を受験するころは、受験科目に「マンガ学」というものが出てくるかもしれない。
マンガこそ、真の学問なのだ。