本来ならばもっともっと真剣に考えなければならないにもかかわらず、見過ごしていたり、触れないようにしている問題は、たくさんあります。「死」も、その中の一つです。
 生きている限り、死は避けられません。死を考えることは、生きることの意味を考えるきっかけになるかもしれません。重過ぎるテーマとも思われますが、学園では幾度となく「死」について考える表現学習に取り組んできました。


 1991年には『生き方さまざま 竹内喜信さん(6歳の息子を肝臓ガンでなくした父)』を資料にして、身近な死と向き合ってみました。
 「ぼくはよくアリをふみつぶしてしまいます。でも、もしぼくがアリでふみつぶされたらいやなので、ふみつぶすのはやめようと思いました。」
 「花をきれいだなぁと思って、その花をとってしまったことがあった。その時はうれしいという気持ちだったけど、今考えてみると、花はとってしまうとすぐしおれてしまう。もしとらなかったら、もっと長く生きていたかもしれない。」
 「その時だ。左側の道路から、車が急に出てきたのだ。私はあわててブレーキをかけた。が、雨で道路がすべり、ころんでしまった。気がつくと、自転車の前のタイヤがつぶれていた。 <中略> その日の夜、もしブレーキをかけるのが一秒おそかったらと、私は部屋で何回も考えた。」
 けがや病気や事故など、人は皆、数限りない危険に遭遇しています。命にかかわる大事を乗り越えて生き続けているという奇跡に気がつけば、自分という存在もきっと違って見えてくるでしょう。
 「私は今まで何回か死のうと思ったことがある。けど、勇気がなかったのか、死んだあとがこわいせいか、死ねなかった。今考えると、はっきり言って死ななくてよかった。もし死んでいたら、家族の人たちが悲しむのはあたりまえだし、悲しい生活がまっていたから。」


 1996年には『ガンジス』を聞きました。長渕剛さんが、様々な遍歴の末、インドを旅した際に作った曲です。
 インドは人生観を変え、ガンジス川は死生観を変えるとも言われています。大いなるガンジス川を目の当たりにして、長渕さんもたぶん見方が変わったのでしょう。
 「今にでもたおれそうなろうばは、つらくっても、苦しくっても、人前では笑顔をなくさないんだなあ。そんなろうばみたいに、強く生きていかなくてはいけないことをおそわった気がした。このろうばは、こんど生まれ変わったら、ゆうふくな国に生まれるんだろうな。」
 「むなしさにつきおとされそうになっても、死んだら『はい』になるだけだと思って、生きよう!生きよう!としている。
 命がなくなったら、もうすべてが終わる。命だって死にたくないと叫んでいるんだと、私はこの曲から初めて知った。だから、絶対に自殺なんてしてはいけないんだ。」
 「強く死ぬ。強く死ぬ。強く死ぬ。  どういうことなんだろう。強く生きるという言葉があるから、この言葉だってあってもおかしくはない。けれど、強く死んだ人と、それを見た人しか分からない。  強く死ぬ。強く生きる。……」
 長寿をまっとうし、この世を去る時が近いことを悟った老人は、家族にガンジス川まで連れていってもらい、最後の沐浴を済ませると、静かに死を待つのだそうです。火葬した後の灰をガンジス川に流してもらえば、神の国に生まれ変われると信じて。


 今年は新井満さんの『千の風になって』を聞きました。NHKラジオで紹介された時、感動が止まりませんでした。すぐにCDを購入し、その後、聞くたびごとに感極まってきます。この感動を分かち合いたいと企画したのが今回の表現学習です。
 詩と朗読、そして、オーケストラバージョンを聞くうちに、教室の中にも風が吹き渡っていきます。
 「前にかっていた愛犬が死んでしまったときのことを思い出してしまい、とても複雑な気持ちになりました。同時に、その愛犬は『千の風』になっているのだと思いました。ホッとしました。」
 「私もおばあちゃんが亡くなっている。きっと空になって、私を大切に思っているのだ。きれいな星になって見守ってくれるとも言っていた。今は冬で、晴れれば夜空は星でいっぱいだ。その一番明るい星が、おばあちゃんの星だ。
 人が死んだというのは、いなくなったのではなく、星や空になって見守ってくれるということだ。」
 「お墓に入ったけど生きているというのは、とても深い意味がある。表面上は死んでしまっても、『まだ生きているぞ』と叫んでいるのだろう。死んでしまった人間が死後どうなっているかは、誰もわからない。この詩は、『風』という、肌でわかっても目に見えないものに例えることによって、『人間の魂も、目では見えなくてもあるんだよ』と言っているような気がする。」
 作者不詳の原詩 a thousand winds の冒頭を、新井さんは次のように訳しています。
        私のお墓の前で 泣かないで下さい
         そこに私はいません 眠ってなんかいません
 死が風や光や雪や鳥や星などに変わるにすぎないとすれば、生とは死に包まれ育まれることに他なりません。死は生を支え、生を産み出していると感じられれば、死に対する恐れもずいぶん異なってくるのではないでしょうか。


 「おばあちゃんが、『ひいおばあちゃんはもうそう長くは生きられないから、ひいおばあちゃんが天国に行ってから自分のやりたいことをやろう。それまではひいおばあちゃんの世話をちゃんとしてあげよう』と思っていたのでしょう。 <中略> いろいろな世話でつかれてしまったのか、おばあちゃんの方が先に天国へ行ってしまいました。」
 その塾生のおばあちゃん手作りのお雛さまは、寄贈していただいてから11年目の今春も、学園を見守って下さっています。

                               

11年目のお雛さま