五月の歴史 六月の歴史

 日本列島における人類の歴史が60万年前に遡る大発見と言われた「上高森遺跡」の石器は、事前に埋めておいてから発掘したものと、考古学会より最終的に断定されました。このような捏造ほどではないとしても、歴史的な事実とされている中には、疑わしいものも少なくありません。

 たとえば1575年5月21日(新暦では7月)に愛知の東部で、武田軍と織田・徳川軍の激しい戦闘が起こりました。天下無敵とされた武田の騎馬隊を、織田の三千丁にのぼる鉄砲隊が撃破したとして世に名高い、長篠の戦いです。
 その騎馬隊は、映画に登場する騎馬隊とはまったく違います。当時の馬は、競馬場で疾走する現代のサラブレッドではなく、輓馬で使われる背が低くてがっちりとした種類でした。鎧と兜に身を包んだ重々しい武将が、移動のために乗るのは便利でも、先頭には不向きで、馬から下りて戦場に臨んだようです。
 一方の鉄砲隊は、まず3000丁もの火縄銃を持ちあわせていたとの記録が残っていません。仮に1000人が横に並んだとして、後方で火をつけ、隣の火縄銃にぶつからないように交代して前方に出るために十分な間隔を確保するには、よほど広くて平坦な地形でないと不可能です。矢が飛び交う戦闘形態が中心だった戦国時代に、初めて登場する3000名もの鉄砲隊が一糸乱れずに火縄銃の三段打ちを続けられるとは思えません。
 つまり、「騎馬隊と鉄砲隊による合戦」は、後世の作り話であり、時代を経るうちに歴史的事実と混同されていたのです。

 1641年5月17日には、オランダ商館が長崎の出島に移され、その後鎖国が続いたとされています。ただし、その法的根拠となる『鎖国令』は実在しません。
 そもそも「鎖国」という表現は、オランダ商館付きの医師として日本に来ていたエンゲルベルト・ケンペルが著した『廻国奇観』を、志筑忠雄が1801年に翻訳するのに際して初めて用いられた訳語ですから、1801年以前には「鎖国」もなければ『鎖国令』もありません。
 1634年の「海外との往来や通商を禁ずる」とか、1635年の「日本人の海外渡航や帰国を禁ずる」などの個々の法令を、ほとんどの本が『鎖国令』と表記しているのは、事実をそのまま述べるよりも、言い換えた方が理解しやすくなると考えたからでしょう。ちなみに幕末の大老井伊直弼は「閉洋の御法」と記しています。

 確かにスペインやポルトガルの来航は禁止されますが、オランダがその分も埋め合わせて貿易を続けました。ヨーロッパを中心とした世界の情勢も、長崎のオランダ商館から毎年江戸に出向いて、幕府に直接伝えられていましたし、蘭学は各地で学ばれていました。
 人口が5万人の長崎の町には、5000もの中国人が居を構え、中国との交易が行われていました。オランダ船の年間最大10隻に対して、1年間に最大で192隻もの中国船が入港しました。
 対馬を窓口にして朝鮮との貿易が行われ、釜山には日本人の居留地までありました。1607年5月6日江戸入城を皮切りに12回も朝鮮通信使が来日し、数百名の行列が陸路江戸とを往復していました。
 薩摩を窓口にした琉球使節の来訪のたび、江戸をはじめ町々はお祭りのようにわきかえったと伝えられています。
 また松前を窓口にした蝦夷地、さらにはロシアとの交易もありました。
 「鎖国」という文字からは、鎖で縛られて堅く閉ざされた国のような感じを受けますが、外国の物資も情報も、限られていたとはいえ、長崎の町以外でも見聞きできていたのです。

 それにもかかわらず世界を二分しようとしたスペインとポルトガルに代わる地位を狙うオランダからすれば、shut up the country と思えるのでしょう。
 もっとも「鎖国」は、日本とヨーロッパとの貿易を独占するために、天草・島原の乱などを口実にして、オランダが江戸幕府にけしかけたのだという説もあります。

 1853年6月3日に浦賀沖へやって来た蒸気軍艦二隻と武装帆船二隻の要求に応じて、1858年の6月19日には、日米修好通商条約が締結されます。
 それから150年を経て、戦乱や迫害を逃れて日本に助けを求めてやってきた人々のうち、難民として受け入れられるのは年間20数名ほどに過ぎません。大半は不法入国者とされています。欧米諸国がそれぞれ数千から数万人もの難民を受け入れているのに対して。
 難民条約に加入している国は難民を保護する義務があるにもかかわらず、難民の入国を拒み続ける現代の日本も、「鎖国」と見なされるのでしょうか。