先月、不登校に関する保護者交流会を持ちました。
学校に行けなくなったころからその後の経過など、それぞれの状況を述べあうことから始まって、学校のこと、教育のこと、社会のこと、そして親子の関係などなど様々な話が出て、あっという間に3時間が過ぎてしまいました。
不登校といっても一人一人かかえている背景は違います。共通していたのは、不登校に直面した当初のとまどいでした。「どうして行けないのだろう」という素朴な疑問がわいてくるからです。
兄弟も、近所の子も、学校へ通っています。親も、まわりのおとなも、学校へ通ってきました。毎日食事を摂るのと同じくらいあたり前と、気にもしてこなかった通学ができないという事態に、あわてるのも当然です。
17年ほど前に、不登校の塾生を初めて迎えた時もそうでした。どうして通えないのか、分かりませんでした。そこでいろいろな交流会や研究会に参加しました。そのうちのある会合での発言を、今でも鮮明に覚えています。
「私が行けば成績の順位が下がる同級生が出てくる。友人を押しのけてしまう学校に、私は行けない。」
学校に行けない理由をはっきり述べることができるかどうかは別にしても、不登校に至った背景には必ず何かがあるのであって、「学校を休む」「登校しない」という現象だけに目を奪われてしまわないようにと教えられました。
ですから、学校に行かせよう、なんとかして行かせようという努力は、百害あって一利なしと言わざるを得ません。学校へ行けないこどもの思いをうやむやにして、とにかく学校へ行かせればいいというのは、親のメンツやおとなの対面を優先してはいけないでしょう。
自分の中で整理がつけば、学校に再び通いだす場合もあります。
学園に2ヶ月通った後、「明日から学校へ行きます」と言ってきた塾生もいます。
小学4年の時から6年間不登校を続け、そのうち4年間学園に片道約1時間かけて通ってきた塾生は、高校に入学して以降、無遅刻、無欠席で過ごしました。
いつから登校するのか、何ヶ月後なのか、何年後なのか、それはわかりません。しかし、いつかは動きだす時が来ます。その時まで、できるのは待つことです。
「こうすれば不登校を克服できる」という類の本が出版されています。これらは、「不登校は悪いこと」という前提で話をすすめています。「悪は直さなければならない。ではどうすればいいか」という筋道です。
でも、不登校はほんとうに悪いことなのでしょうか。
学校へ通うのが唯一絶対の道であると考えれば、通えないのは間違っている、すなわち悪ととらえてしまうのかもしれません。そうなると、入学試験で不合格になるのも悪ですし、病気や障害を持っているために学校に通えないのも悪になってしまいます。
学校へ通えない自分は悪い人間だと思い込んでしまえば、人々が寝静まる夜中しか動くことが許されないのではと、昼夜逆転になりかねません。さらには自分はこの世に生きていてはいけないのではと、思い悩んでしまいかねません。
10年ほど前、自殺しようとして一命をとりとめた塾生がいました。
不登校に対して理解が少なかったころです。学校に通えないのは精神の病いだろうと、精神病院に強制入院させられました。何ヶ月もたって、ようやく本人の主張が届いて退院できた後も、薬の副作用が強く、うつろな表情はなかなか晴れませんでした。
学校への不信に加えて、病院への不信、親への不信が渦巻く中で学園へ通いだしました。それから1年ほど経たある日、その塾生が突然語り始めました。
「学校でグループのリーダー的存在だった。」
「そのグループの1人を、仲間を使っていじめさせていた。」
「数日欠席している間に、それまでいじめられていた者が、いじめさせていた仲間と結びついてしまった。」
「今度は自分がグループ全員から徹底的にいじめられるようになった。」
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1時間以上、一方的に話を続けました。聞くだけで、息をする間もないほどでした。
その塾生にとって、学校を休むのは身を守るためにやむをえなかったのです。いじめる立場がいじめられる立場に変わったなどと事情を説明できないので、学校を休む理由がまわりに理解されるはずはありません。学校を休めないなら、この世を休むしかないと考えたのでしょうか。
学校へ通うのは1つの道です。学校を休むのも1つの道です。登校する人がいれば、不登校の人がいて当然です。
いろいろな人がいて、いろいろな歩みをしているのは、道端で通りをながめているとよくわかります。
「こどもが不登校になったおかげで、様々なことが見えるようになった」
と、交流会で保護者の一人が話されていました。
歩くのも人生、休むのも人生、人生いろいろです。